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うわぁぁ昨日いきなり日記つけずに布団に突っ伏して鼾かいてた土屋です。本当にもう…orz
で、今日も今日とてちょっと嫌な事があったのですが、とりあえずこないだの旅行の事考えていたら回復したのでもうなんかいっかー…という感じです。珍しく乙女にリフレッシュしそうなものを買ってみたのですが、やっぱり性に合わなかったです。バスソルト…orz
オタクはオタクらしく妄想ぶちかましておこう。うん。(何が何やらです)

そんなわけで、さるお方のお陰で以前捏造しようとして途中で挫折していた人を捏造してみた。やっとこさ!

5-25_.jpg

内藤のあにさま。名前迷ってるんですが、結局落書きとは変えて工藤昌祐(仮)。
いまだに仮を引っ張るくらいに名前を確定しずらい雰囲気なのです。そもそも二十四将伝の「昌康」はどこから引っ張ってきたのかと…orz
やっぱり原典にあたるしかないところまで来てしまったのだなぁ…きちんと読み下せるようになりたいです。
昌豊の初名が祐長なのを考えると、昌祐の方がしっくりくるのですが、そうなると父の工藤下総守虎豊の名前がワケ解らない。虎の字は信虎様からの偏諱だとすると、自分の家の通字は潰すかなぁ…とか考え込んでもやもやします。そもそも虎豊じゃないのか?名前…うぉぉぉ…?
で、その昌祐兄さん。
某本では武田出奔中に北条に仕えた、との事で。
でもきちんと文書が残っているものだと、その後天正2年に箕輪城に在城しているのが確実で(しかも昌豊の代わり)…あと同5年に箕輪城関係の朱印状があって、更に同9年に昌月と連名で朱印状の奉書あり、と。
………いつ、戻ってきたのだろうと。北条から?北条…か…でも元々出奔中にいたであろう場所は北条の領地だもんなー。で、北条といえば、氏康様死去により氏政と和睦したときの名代は昌豊だったなぁ…え、なにこれ…ちょっともやもやしてくるーーー!!
で、きっかけを作ってくださったお方が「武田家との確執」というポイントを上げてくださったお陰で妄想が進む進む…!本当すみません有難う御座います!
要は、親が殺されて出奔して「武田(信虎は勿論その跡継ぎまで後を引いちゃったり)」に嫌悪だとか憎悪だとかそういった感情があって、弟や他の一族郎党は甲斐に戻ったけれど結局北条に仕えたままとか。
更にそのあと御館様がお亡くなりになった後あたりにようやく武田に…しかも弟が城代務めてる城に在城しちゃったり。血の繋がってない甥っこの支えになってくれてたりするともゆる。もゆる!!(二回もいわなくていいよ)
あと、そもそも虎豊パパが信虎様との仲はよろしくなかったのですよね。というか信恵対信虎様の戦いの時に信恵側についた上に負けて小山田パパと一緒に伊豆に逃げて、それを許されて武田に戻ってきた人だった筈なのです。そんな人を信虎様が心から信用するとは思えないしなぁ…ってワケでこれは信虎世代特有の腹の探りあいあるよなぁ…みたいな。
そんな父の関係があるので、更に信虎様への感情はドロッドロだろうなぁー…つかだといいなぁー…。あ、れ…信虎様がお亡くなりになったのって天正2年…?じゃぁ結局信虎様がネックか。そうかそうか。
本人的には結構あっけらかんとした面があるキパキパした人だといいなぁ。で、家の事にはいっぱいいっぱい。更に弟よりかは打たれ強い、というか割り切れる人かなぁ。あぁでも弟は周りの為なら結構…うん…(何だよ)

ってこれ時間やばいぃぃぃぃぃぃぃ!!もうちょっと煮詰めて出直します!夢の中で纏まるかもしれないという腐女子特有の便利な頭!(えぇぇ)
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